田島幸一の住む隣町に谷口司法書士事務所がある。谷口司法書士は、事務員に指示して今日の取引の書類を作成させていた。それは一週間前から予約の入っていた取引であった。谷口司法書士は今朝事務員に取引物件の登記簿謄本を取って来させ、その物件の権利関係を再調査した。

「一週間前に取ったやつと変わってないな」謄本には、所有者田島幸一、東西銀行の抵当権が設定してある。

 今日の取引は10時の約束であったが、10分前には既に売主の田島が来ていた。「先生、申し訳ありませんが、時間があまりないので私の分の書類だけでも先に見て貰えませんか。」谷口司法書士は型どおり権利書、印鑑証明書を点検し、運転免許証を確認した。「田島さん、それではこの売渡証書、と委任状に署名捺印して下さい。」

谷口は該当個所を示し、サインをさせ、実印は谷口が預かり押印をした。

 しばらくして抵当権者である東西銀行の担当者と、買主がほぼ同時に事務所に入ってきた。谷口は抵当権抹消書類と、買主から委任状、住民票を預かり、これで間違いなく登記が出来る旨を告げ、代金を清算させて取引を終了させた。別にこれといった問題もなく、無事に終わり規定の報酬を貰った谷口であったが、ただ、通常はつきものの買主に対しての金融機関の融資に絡む担保権の設定がなかった分だけ報酬が少なかったので少々がっかりしていた。

 

太陽

 

 今日も朝から30度を超す猛暑であった。去年の冷夏とは打って変わって、すさまじい暑さ続きの夏である。まるで地球全体が灼熱の悪魔にすっぽりと呑みこまれているようだ。町行く人々は日傘をさし、ハンカチを片手にあるいは扇子を忙しく振りながら、それでもそれぞれ目的地に向かって忙しく歩いていた。

 田島幸一は、谷口司法書士事務所を出て、流しのタクシーをつかまえた。今しがた受け取った現金が2000万円ほど入ったボストンバッグを大事に抱え、運転手に駅前のホテルに行くよう命じた。ホテルに着くと、部屋に戻り、現金が入った銀行の封筒を今度はアタッシュケースにつめ替えた。それからすぐにホテルのクロークにアタッシュケースを預け、再びタクシーをつかまえて行く先を告げた。

 

 大田司法書士事務所では、既に今日の取引の買主である木村、不動産業者の田中、生野、それから木村に売買代金を融資する県南信用金庫の担当者が来て田島幸一を待っていた。

「すいませんねえ皆さん、もうすぐ来ると思いますので…。昨日もちゃんと時間の確認をしておりますから…。」

田中は自分のローレックスの金バリの時計を見ながら申し訳なさそうに言った。時間は11時になろうとしていた。

 今日の取引の約束の時間は10時半であった。通常このような取引には約束の時間より10分くらい早く行くのがこの地方の慣習であった。間もなく大田事務所の前にタクシーが着く音がした。しばらくして田島幸一が如何にもすまないという顔で入ってきた。

「申し訳ありません、ちょっといろいろありましたので遅れました。」

「田島さん、どうぞそちらに掛けて下さい。」

売主のため一つだけ空けてあるソファーを指しながら大田司法書士は言った。

「それでは先生、昔さんお揃いになられましたのでお願いします。」

不動産業者の田中が気を利かしたつもりで言った。

 いよいよ今から厳粛なる取引が開始されるのである。

 大田司法書士は、おもむろに今朝法務局から取り寄せた取引物件である田島の自宅の登記簿謄本を買主である木村に見せた。

「木村さん、ご覧のとおりこれは今朝私が法務局で取ってきた謄本です。所有者は田島幸一さん、東西銀行の抵当権が一つ設定してあります。今日は東西銀行の抵当権を抹消し、田島さんから木村さんへ名義を移転し、さらに木村さんに融資する県南信用金庫の抵当権設定とこれら一連の登記をします。」そう云うと、木村はコックリと首肯きながら「よろしくお願いします」と答えた。

 大田司法書士は田島に法務局からのハガキの提出を求めた。

「もう既に署名、捺印してあるんですね。」

大田は詳細にそのハガキを点検した。確かに法務局からのハガキに間違いなく、署名も、又印影も鮮明に押印してあり問題はまったくなかった。

「ところで、東西銀行の抹消書類は?」

大田は田島に尋ねた。

「はい先生、今朝一番に銀行に返済に行きまして、実はその手続きでこちらに来るのが少し予定より遅れたという訳なんです。」

「それで、その抹消書類はどうしたのですか」

重ねて大田は尋ねた。

 田島はポケットからハンカチを取り出し、額から流れ落ちる汗を拭いながら

「東西銀行の担当者が言うには、抹消書類が本部から届くのが11時過ぎになるそうなんです。そこで、たまたま銀行がいつも頼んでいる係りつけの谷口司法書士さんが見えてあるのでそちらに頼みましょうか、何だったら一筆書いてもらってもいいですよ、と言われたので私としてはこのまま皆さんをお待たせしてご迷惑をおかけするより、大田先生に後で電話ででも確認してもらった方がいいのじゃないかと思い、とりあえず返済証明書と谷口司法書士さんの名刺を頂いてあわててこちらに駆けつけてきたんです。やっぱりもう少し待って、貰って来るべきだったんでしょうかね…。」

少し申し訳なさそうにしゃべると又ポケットからハンカチを取り出し今度は首筋と、額の汗を拭った。

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