9月13日
7時30分にホテルを出て空港へ。国内線のカウンターへ着くと既にチェックインは締め切られていた。こちらは言われたとおりに来たのだが、日本のように何分前という決まりがないので、交渉するとスーツケースを自分たちで運ぶことになった。
ようやく搭乗口へたどり着いたら今度は通訳のムンフさんのチケットがないので、乗れないという。彼女の分はバット氏が持っているらしい。登記局の次長なのに全く無責任。

家に電話したら空港へ向かったというので、頼み込んでぎりぎりまで待ってもらう。
と目の前に突然彼が現れ、一言のおわびもなく、自分だけ飛行機にむかって走っていく。
その後を追って300mもの距離をスーツケースを引きずりながら疾走し、やっとの思いで飛び乗る。一体どういうつもりなのか文句のひとつも言ってやりたかったが、ここで爆発してはこれからの関係が気まずくなるのでまたまた“忍”。齋藤先生によれば、社会主義時代の特権意識がぬけきれていない人たちは素直にごめんなさいが言えないらしい。
一息ついて我に帰ると、なんて汚い機内。考えてみれば朝からのドタバタでトイレに行く暇がなかったので意を決して行くと、これまた言葉を失う状態。それでもなんとか用を足して、一言スチュアーデスに注意すると、紙コップにジュースをなみなみとつぎ、便器のお掃除。
私もツアコンをしていて世界中の飛行機に乗ったけれど、さすがにこんなのは初めて。
いつか中国で非常時に乗った軍用機の方がはるかにましだ。水洗トイレだったし。

オランゴム空港ビルディング

気をとり直して少し眠り、窓の外に目をやると、ゲルが見えてきた。だんだん高度も下がってきたが、滑走路らしきものが見えない。その内あっという間に砂利道に着陸。そう、ここが空港だったのだ。もちろんターミナルビルなどなく、小さな木造2階の建物が空港事務所兼カウンターらしい。
タラップのところまで現地の人たちが出迎えに来てくれていた。その内の1人は去年のセミナーで熱心に質問していた人で、オブス県の登記局長ダワードルチェ氏(以下ダワー氏と略す)だった。ここはオブス県の県庁所在地オランゴム市。ロシア、カザフスタンと国境を接する人口約16,000人の地方都市である。
町の中心には大きな広場と石造りの頑丈そうな役所の建物があり、そこから道路が東西南北に伸びている。社会主義時代の面影を色濃く残すこの町はなんとなく映画のセットのようでもあり、馬や馬車が日常の生活にとけ込んでいる。
ひとまずホテルに入ったのだが、これがまたすごい。昼間は電気が止まっているので、廊下は真っ暗。水が出ないので手も洗えない。関西空港で念のため買ったウェットティッシュを大切に使う。昼食はホテル前のレストランで。まず初めにダワー氏が主催者を代表して歓迎の挨拶をし、モンゴル焼酎アルヒで乾杯。メニューはキュウリ、カブ(ここの特産らしい)、タマネギを切っただけのサラダ(以後毎回登場)に羊の煮込み料理。それにモンゴル人の常食スーテーチャイ(塩味のミルクティー)。パンは素朴な味でけっこう口にあったので、滞在中の私の主食となった。
昼食後、スーツに着替えて、県庁へ。
ここは人民革命党の強い地域で、32年も独裁者として君臨したツェデンバルの銅像が今もなお県庁正面玄関前に立ち続けている。それより面白かったのは、道路に横断幕があり、「登記局開設2周年記念。日本人専門家による西モンゴル地区不動産登記セミナー開催」と書かれているというので、記念に写真を撮った。

「登記局開設2周年記念。日本人専門家による西モンゴル地区不動産登記セミナー開催」の横断幕

その後まず日本の県議会に相当する人民会議を表敬訪問してから、県知事、議長、県の幹部やセミナーに参加する近隣5県の登記官の人たちと歓談。
その際人民議長から真面目な顔で「オブス県でも住宅の私有化が進んで登記が普及しつつありますが、モンゴルの大切な財産である家畜とゲルを是非登記したいと思っています。」
などと言われ、思わずのけぞりそうになってしまった。
登記所を視察したら小さな建物の2階の1室。今のところウランバートルのように事件数はないようで、セミナー期間中はお休みにするそうだ。再びホテルに帰ってから登記官全員とロシア製ジープに分乗し、ハイルヒラー山の保養所へ向かう。
途中で1箇所果樹園に立ち寄って、チャッツラガンという小さくて酸っぱい実の収穫風景を見学した。

チャッツラガンの収穫風景

モンゴルでは果樹は貴重な財産らしく、登記もするということだが、手入れはされてなくまるで野生状態。ここでも例のごとく農園主が出てきて歓迎の演説があり、嗅ぎタバコをすすめられて(これを交換するのがモンゴル人の挨拶)、この果樹から作ったお酒をつがれる。皆はその酒を飲みながら、つまみに木から実をとって食べていた。しばし歓談の後、一同に別れを告げ、一息ついたところでさあ出発。軍事上の理由らしいが、モンゴルの道路には首都ウランバートルにも草原地帯にも案内標識がいっさいない。しばらくすると「道路」はなくなり、見渡す限りの地平線の中、頼りになるのは草原に残されたタイヤの跡。それすらない所もあるのだから、ドライバーの方向感覚は相当なもの。昼間は太陽、夜は星の位置で大体の方角をつかむのだそうだが、天然のカーナビである。それにもまして、もっとすごいのは生まれて初めて乗ったロシア製ジープ。天井を指で押すとテントみたいに柔らかい。そのポンコツジープが道なき道を疾走する時、車内の人間はまるで乾燥機の中に放り込まれたような状態になってしまう。前後、左右、上下にもみくちゃにされ、後ろの席でボーっとしていると時々やって来る大きなギャップに跳ね上げられ、天井に頭を打ちつける。車に酔う人が乗ったら、胃の中のものを全部吐いて胃液もかれてしまいそうだ。大学時代自動車部だった私はラリーを思い出し、初めのうちこそ、ジェットコースターに乗ったようなスリルを楽しんでいたものの、だんだん飽きてつい居眠りしてしまった。「原田さんはほんとにどんな所でも寝れるんだね」と齋藤先生は改めて感心した様子。ジープはやがて山裾に入り、川を渡って、急な坂を上ると、やっと今夜の宿に到着。保養所に泊まると言われて、ちょっと期待したのも束の間、宿舎はとっても簡素で、寒い。標高が2000mを超えているらしく、すでに薪がたかれていた。

セミナー会場の大型ゲル

これで温泉でもあればいいのになんて思っていたら、それどころかシャワーも、水の出る蛇口もない。トイレらしきものはちょっと離れたところにあるのだが、案の定、気が遠くなるように臭いし、電気もないので、誤って落っこちでもしたら大変。滞在中は必然的に“自然トイレ”を覚悟した。一度だけインドの田舎でしかたなくやったことはあったっけ。
広い敷地の中、食堂は遠いので、したくができるとラッパの合図が鳴る。三々五々とみんなが集まり、まだ電気がつく時間ではないので、暗闇のなかで食事した。メニューはほとんどお昼といっしょ。ここでは食べる楽しみはあきらめることにした。食後の2次会は明日からのセミナー会場となる大型のゲル。各地の登記官やジープの運転手さんたちと飲めや、歌えやの大宴会。全員が詩を朗読したり、持ち寄った各地の地酒を酌み交わしながら、民謡なんかを歌うのである。やがて私の番になったので、子供のころに流行ったピンキーとキラーズの「恋の季節」を歌ったらこれが大うけ。こちらの映画の主題歌として大流行したと本に書いてあったからなのだが、モンゴル語で大合唱となったのにはびっくり。12時近くなったので、明日の準備があると言ってやっとぬけることができた。ゲルはそのまま何人かの寝床にもなるので、その後も宴は延々と続いたようだ。部屋にもどり、薪の火が燃えているうちにやっと眠りにつく。長―い一日。

食事の支度ができるとラッパが鳴る食堂
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