「先生、印鑑はご両親の実印でよかったですよね」
 「ええ……」
 売渡証書、委任状にも既に両親が署名し終わっている。
 「それでは、印鑑は鮮明に写す必要がありますので、先生に押してもらいましようね。」
 満福不動産は、両親から実印を預かると、それを日間名に渡した。
 印鑑2つを渡すと、満福不動産は固定資産税の清算をし、それが終わると、おもむろにカバンの中から実測図を取り出し買主に手渡した。一方、融資する銀行の担当者は担保の設定書類を日間名に渡し、買主から出金伝票に金額を記載してもらおうと準備をしている。
 更に、この銀行の支店長が盛んに売主に預金のお礼を言っている。
 銀行にとって定期預金、特に今日のような月末の大口の預金はありがたいのであろう、支店長の顔が嬉しさにほころんでいる。
 日間名は躊躇しながらも、取引の方は待ったなしに進んで行ってしまったのである。
 関係当事者は皆それぞれ事情があるのだろう、取引の早期成立を望む空気が、この場を覆っている。
 もうここまで来ると、今更取引を中断するのは、はばかられる状況になっているのであった。
 あとは実印を鮮明に押すだけだ。
 この場の全員が日間名の手元を注視している。全ての書類に両親の印鑑が押されていった。
 売主、買主、仲介業者、担保権者、融資銀行の支店長、行員、この取引の場にいる全ての人が、当然のように日間名の次なる声を期待している。
 (もう後には戻れない……。なに、仮に養親に代理権があったとしても実親にも当然あるはずだ。例え、どこに養子に行ったとしても、子供にとって実の親という事実は永遠に変りようがないんだ………。間違いない。)
 日間名は、自分に言い間かせるように宣言した。
 「決済して結構です」

 
 

 

 夏の熱い日であった。取引を済ませ、銀行から一歩外に出た日間名は、蒸せかえるようなアスファルト舗装の道路からの照り返しに、目眩さえ感じたのであった。
 そう、それは丁度、早く醒めて欲しいと願わずにはいられない、まるで真夏の悪夢を見ているような、そんな異常な熱さであった。

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