その後は日本大使館ヘ。今回のモンゴル派遣の報道を新聞で見た高校の先輩から、甥が大使館に勤めているので何かあったら連絡するように言われてきたのだが、偶然にも彼が今回の担当者だった。しかも、その的場氏は年も同じで福岡市出身、もう一人の岩崎氏も熊本出身だったので、関東出身の斎藤先生や城水氏をさしおいて、ローカルな話題で盛り上がってしまった。午後はウランバートル市登記局を訪れ、局長のツォルモン氏や次長のチェデンダグバ氏に会ってモンゴルの登記制度の実情を聞き、セミナーの打ち含わせをした。

 モンゴルでは現在市場経済化を進めているので、法律もそれに含わせて改正するのが政府の課題だということである。実際社会主義時代の民法の改正作業は未だに終わっていないらしい。その間にも従来国営だった住宅の私有化が始まるにつれ、不動産取引の必要性が生じた。

 

 私有化されつつある共同住宅

 

 

 96年からドイツの支援を受けて不動産登記法案を作成、97年1月9日国会で可決された。同年2月12日に政府の9省52局の一部として、不動産登記局ができ5月1日に業務を開始した。

 

ウランバートル市の登記局には登記課・管理課・総務課があり、職員数は28人。登記課は8人。各人が市内の8区をそれぞれ担当している。その内女性が7人。モンゴル全体の21県には各一つの出張所が置かれ、職員数は2人ないし1人。97年5月に住居私有化法が成立し、10万戸のアパート(ウランバートルだけでも6万戸)が私有化された。内3万5千戸が登記を完了し、5千3百戸が転売され、2千5百戸が担保に入っているそうだ。

 

 登記所の窓口風景

 

 

 登記の手続きは本人申請で、代理人による手続きは不正が多く、現在禁止しているらしい。何でも、ある出張所の職員が親戚を代理人にして2倍の手数料を取ったのが問題になったとか。日本の不動産登記における司法書士制度の重要性を説明したところ、局長も将来における専門家の必要性を認めた。

 打ち合わせの後、建物の内部を見学した。事務室は登記官の執務室と登記簿類似の書類の保管室に分けられていた。保管室は一つの区毎に書類を保管する書棚が合計8個置かれていたが、すでに入りきれない様子で机に山積みにされていた。受付は窓口が一ケ所で大勢が並んでいる。

 

 申請書類は山積み状態

 

 

 建物の人口のすぐ横には公証人の執務室が置かれていた。モンゴルにおける権利の変動は、公証された契約書に基づき登記がなされた時ということなので、その利便のためだろう。

 局長と次長に、八女茶と温泉の素・ホッカイロ等をプレゼントして初日はこれで終了。

 夕食はそろそろ羊にも飽きてきたので、近所の韓国レストランヘ。が、なんと牛肉の焼肉は予約がないとダメだといわれた。回りを見渡すと誰も肉を焼いておらず、バイキングを食べている。内容は今一だったが、御飯とキムチだけは懐かしかった。BGMにはラテン音楽がかかっていた。昨日の中華とクラシックといい、レストランと音楽はバラバラのようだ。

 

 モンゴルの権利証

 

 
 
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