今となっては既に終わったことであるが……。
 電話口の向こうから六法を繰る音が間こえてくる。少しずつ嫌な予感が襲って来た。まるで、急降下する為に最高峰の落下点を目指してガタン、ガタン、ギシギシと音をたてながら、少しずつ昇り上がっているジェットコースターに乗っているような、そんな不安と恐怖が重なりあった気持である。
 ネクタイをさらに緩め、大きく息を吸い込んでも一向に息苦しさは治まらない。
 「お客さん、まだ暑いですか?もっと冷房効かせましょうか」
 日間名のしぐさをバックミラーで見た運転手は、気をきかせたつもりで問いかけた。日間名はそれには答えず、ひたすら磯樫の返事を待ったのであった。
 随分と待ったような気がした。調べ終えたのであろう、磯樫からの返事である。
 「やっぱり僕の言うことに間違いないよ。」
 何と非情な一言であろう。冗談であって欲しい。日間名は再度問いかけた。
 「いや、間違いない。」きっぱりした磯樫の声である。彼の確信を持った言葉に、受験時代の知識の記憶が日間名に甦って来た。しかし、いまさら甦っても遅いのである。

 
 
 

 「お客さん、どうしたのですか。顔がまっ青ですよ。冷房効きすぎました?」
 尋常ではない日間名の様子に、タクシーの運転手が心配そうに声をかけた。だが、日間名にはその言葉も、もはや耳に人らない。
 20年間、こつこつと積み上げてきた彼の司法書士としての城が、音をたてて崩れ落ちて行くようだ。
 妻や、まだ学生である子供の顔が浮かんでは消えていく。
 (俺は何てことをしたんだ……。)
 この一事のために、今迄築いた全てのものをなくしかねない。そんなバカな……。と云っても時間は元に戻らない。
 人間には誰でも魔がさす時がある。それはチョットした油断や隙、慢心につけ込んで襲って来るのである。
 自分では意図していなくても、意思とは反対のことをしてしまうことがある。まるで誰かが陰で、操り人形みたいに糸を引くように。
 それは丁度、悪魔が人の心を占領し、善良なる判断や常識を放逐させ、あるいは忘却させているかのようだ。
 今回の取引立会いも、正にそうとしか言いようのない事件であった。

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