ガンドルンからチョモロン
4月27日(木)
昨夕の雨の名残か雲が多く、激しく動いている。谷間から山肌に沿って上方へ動いた雲が更に勢いを増して上昇して行く、その雲の切れ間から真っ白に雪を被ったヒウンチュリ(6,442m)とアンナプルナサウス(7,219m)が私達に挨拶するように交互に視界に入ってくる。やはり6,000m峰や7,000m峰になると山の様相が厳しい。これらの山を眺めながらゆっくり朝食を摂るのは、例えようのない至福のひとときである。
12月に満開になるというサクラ並木の道を抜け、仏塔のある尾根の上に出ると沢山の民家がある。周辺の畑は土地も肥えジャガイモやトウモロコシ等幾種類もの作物も生育が良い。
ヒウンチュリ
6332m
ここガンドルンの村はこの付近で最も人口の集中した村で1,511軒、約7,500人が住むとヤンプ−が話していた。このモディ・コ−ラ沿いの村々の住人は大部分がグルン族である。
500mから800mも深く浸蝕された谷の両岸の上方、陽光溢れる丘陵地に集落をなし、農業を中心に幾つもの村が点在している。
多民族国家といわれるこの国にあって特にグルン族は誇り高い民族といわれている。
ネパ−ル人は誰でもグルカ兵に志願できるのではなく、国内36の部族のうちシャハ族、グルン族、ライ族など5・6の部族にかぎられている。この国の傭兵を一般にグルカ兵といっているが、これは国王の出身地のゴルカが転化したものである。
アンナプルナサウス
7219m
パクスブルタニカといわれた19世紀、インドを統治し、ネパ−ルを窺った英国と、諸国を統一して勢力を増大したネパ−ル王国は2度に亘り衝突したが、ネパ−ル軍は山岳を利用して頑強に抵抗し、英国軍はついに勝利を収めることはできなかった。その経験により、英国はこの国の勇敢な兵士を利用することにして多くの傭兵を採用した。これが現在にも続き、第二次世界大戦においても英連邦軍中最強といわれたグルカ連隊である。ミャンマ−からインドを目指した日本軍も痛い目にあっている。因みに‘97年まで香港に駐留した英国陸軍の中心はグルカ兵であった。このガンドルンの村からも多くの若者が入隊しているが香港撤退に際して村に帰還した人は少なく、英国に渡っている。
村の外に広がる麦秋の畑を抜けて左から落ちてくる小さな沢を渡り、そこから前方に見えるクムロン峠(2,100m)まで登った。峠に立って、来し方を振り返るとガンドルンの村が一望の内にある。民家の石垣に沿った石畳の道を通過する時はそれほど大きな村とは思えなかったが、遠くからみると多くの家が犇いていた。
小麦の取り入れ
ガントルンにて
クムロンからキュムネ−への長い降り道は、森林の苔むした古木に純白の花弁をつけた着生ラン(セッコク系)が群落をなして咲き乱れ、疲れることを知らない楽しい行程となった。
キュムネ−・コ−ラの川原に着くと、先行したペンバが温かい飲み物を用意して待っていた。
ガンドルンの村
今日の宿泊地チョムロンへは谷間から裏山の山腹を登って行くが、村へ着く前に雨になった。雨の降り出す時間が日毎に早くなっている。チョムロン(2,040m)も纏まった村で、多くのバッティ(茶店)やホテルがある。この谷沿いで人が定住するのはこの村が最後となる。キャンプ地の横に西洋風の広い石畳のベランダを持った、インタ−ナショナル・ゲスト・ハウスという洒落た名のロッジがあった。ポ−タ−達がまだ到着せず着替えもできないので、お茶を飲みに入ると多くの人が休憩している。
チョモロンのインターナショナルゲストハウス
二人、三人とグル−プを作り会話が弾んでいる。聞こえてくる話し声の響きを聞いていると、英語、フランス語、ドイツと多彩でまさにインタ−ナショナルである。バッティのグルン族のおばさんはこれら各国の言葉を話して客に対応し、私達には日本語で話してきた。「おばさん、沢山の言葉が話せて凄いね」というと、「少しだけネ」と返事が返ってきた。
この村にも2年前に発電所が建設され、電気が灯った。