4月25日(土) 晴後雪

 朝食を終え、出発の準備をしていると隣のロッジに居た西洋人が声を掛けてきた。カナダからやってきたそうである。どこに登るのかと聞くのでナヤ・カンガだと答えると急に親しみを見せ、自分達も一昨日挑戦し、山の北面から岩壁を登ったが日が暮れてビニールのシートを被っただけでビバーク(不時露営)となり昨日下山してきたそうである。そういえば昨日私たちがここに到着した時に隣の広場に憔悴しきった3人の若い西洋人が居たのを思い出した。彼らはナヤ・カンガに登る前に、キャンジンゴンパからヤラ・ピークに直接一気に登ったが、高山病に掛かり頭痛のため途中で降りてきたことも話してくれた。結局どこにも登れなかったようだ。

 私たちは老人であるので、ナヤ・カンガの北東山稜を東に回り5日間で登山する予定であること、また私たちの年令を告げると非常に驚いていた。自分の父は今年62歳になり、年金生活者で各地を旅行しているが登山の趣味はない。しかしキリマンジャロには登ったことがある、と次から次に話し出した。バット(but)以下はよく聞き取れなくなったが、言葉は分からなくてもその表情から父親を誇りにしていることが良く理解できる。国民性や風俗習慣の違いはあるにしても自分の家族を誇りに思えることはすばらしいことである。彼らはそれぞれ独立して離れたところで生活していても家族としてお互いの心の絆は強いようである。

 シャブルベンシから来たポーターに変わって地元のポーターが集められた。2人の男性と6人の女性である。良く見ると女性全員が少女達であった。賑やかに荷物の選別をしている。

 ランタンコーラを渡る
 

 キャンジンゴンパより谷に下ると、ランタンコーラの中ほどに大岩があり両岸から橋を架けて向こう岸に渡れるようになっている。河を渡って上の台地に出ると湿原であった。池塘群を見ながら原生林に入ると岳樺とシャクナゲの林である。シャクナゲの蕾はまだ固く開花はまだ先になりそうだ。一つの枝に一つの花芽しかなく、自然を生き抜く厳しさが感じられる。

 原生林を登りあがると高原状の台地となっている。日当たりの良い斜面は雪が溶けて地面からはミヤマキリシマに似たツツジ科の小さな植物が固い蕾をつけて香ばしい匂いを放っている。ヤンプーに聞くと「トラプ」と言う名の潅木で祭礼の時に祭壇に供えるのだそうだ。

 トラプの続く道を上るとカルカ(夏の放牧地)が現れた。このあたりから当初予定したブラッチェンカルカへの道から外れているのに気が付いた。目の前のカルカはネーガンカルカである。カトマンズでヤンプーと打合せした時もブラッチェンカルカ(4100m)がベースキャンプ(B・C)予定地と言っていたのにと内心不安もあったが先導するシェルパ達に従い後を追う。

 トラプの咲く丘
 

 カルカを過ぎると雪原となり日照や雨のため腐った雪となり中々前進が捗らない。11時にはB・C到着の予定であったが大幅に遅れた。シェルパやコック達も昼食抜きでラッセルを続ける。ポーター達はまだやってこない。雪原を過ぎてとうとうナヤ・カンガ北東山稜の末端の尾根に取り付いてしまった。B・C予定地とは違っているのは明白だ。シェルパやコック達も深い雪に荷物を置いて身一つとなってラッセルを続ける。遠くに少女達の歌声が聞こえた。彼女たちもこの道を荷揚げするのかと少し不安になった。無雪期でもジグザグの急坂であると想像できる斜面を一気に直登する。

 B.C.を目指して
 

 山稜を越えて尾根を下るとそのすぐ向こうがB・Cであった。ヤンプーに地名を聞くとエイケイソンカルカ(4300m)だと涼しげに答えた。ここはもうガンジャ・ラ(峠)への登り口である。

 午後から天候は崩れ、小雨、小雪、みぞれと目まぐるしく変わっていった。

 4時過ぎに全員が遅い昼食を終えるとシェルパやコック達はポーターを迎えに出かけた。日が暮れて暗くなる頃全員が帰ってきたがポーター達は上がってこなかった。聞くとポーター達は深い雪に音を上げ、ネーガンカルカに荷を置き留守番二人を残して帰ってしまったそうだ。結局全部の荷物を揚げることは出来なかった。残った荷物の中には装備品もあり翌日の行動に差し支えるが26日はC1予定地への偵察及び高度順化が目的であるので、装備の到着を待って行動することにした。

 ベースキャンプ
 

 10時近くに食事。予定が大幅に狂った一日であった。

 

 
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