人生に負の回転のドツボがあるとすれば、まさに田島はそれにどっぷりはまって、益々奈落の底に突き落されるような感じを抱いていた。「何かうまい方法はないかな…」銀行の抵当に入れたとはいうものの、一つだけ処分しなかった親から譲られた自宅の権利書を見つめながら田島は独り言のようにつぶやき思案にくれていた。

 

街

 

 大田実は田島と同じ町で司法書士事務所を開いている。五坪ほどの小さな、しかしその種の事務所としては平均的な広さであった。

 この地に開業して15年近くになり、地盤もやっと出来つつあるところである。しかし、バブル経済の崩壊により、大田の仕事もここ3、4年ジリ貧傾向を辿っている。それに加えて最近では競争相手の司法書士の数も増えてきて、少ないパイの取り合いに奔走させられ、だんだん仕事がやりづらくなったのを実感している。

 ひところは仕事に追われ、時間に追われ、殺気立って申請書類を作成し、正に彼の仕事は時間との勝負であった。事務所に来る相談客に十分な時間をとってやることが出来ないばかりか、「この忙しいときに予約もなくよく来るもんだな」と心の中で冷たく、面倒臭くさえ思っていたほどであった。

 そんな彼も、最近では時間に追われる仕事もあまりなく、たまの来訪者には十分に相談に乗ってやることが出来るようになった。

 これが本来の姿なのかと思う反面、経営者としては、収入の落ちこみに頭を痛めていた。今日も暇にまかせて司法書士会が発行する会報を読んでいると、ルルルルー、ルルルルー、と事務所の電話がなった。それは懇意にしている不動産業者の田中からの電話であった。

「先生、お久しぶりです。景気はどうですか?」

いつもの口調であった。

「今度、先生に不動産取引の立会いをお願いせにゃいかんのですけど、売主が権利書を失くしたと言ってますので保証書でお願いしたいんですが。」業者は困ったような調子であるが、こんなことはよくあることである。大田は一通り保証書による手続きの説明とこれからの指示を不動産業者の田中にした。

 不動産の売買取引には、所謂『権利書』が必要なのだが、売主が権利書を紛失しても、保証人二人が作成したその売主に人違いがない旨の『保証書』を添付すれば登記は有効に出来るのである。

 ただそれには一つの決まりがある。それは『保証書』を添付して売主から、買主への所有権移転登記申請を法務局にした場合、法務局はその登記申請書の内容をハガキに記載し、売主宛に照会するのである。このハガキの回答欄に間違いない旨の署名、捺印をし、法務局に提出するとそこで初めて正式に受理され登記がなされるのである。実際の実務では取引の最終決済場所に売主、買主及び関係者が出席し、立会いの司法書士に売主が回答欄に間違いない旨の署名、捺印をしたハガキを渡し、これを司法書士が確認し、間違いない旨、そしてこれで登記が完全に出来る旨を買主に告げ決済させるのである。これを同時決済と言い、権利書がある場合も司法書士が、権利書、印鑑証明書など登記に必要な書面を確認し、売主本人及びその意思を確認して、間違いなく登記が出来る旨を宣言し、買主にその代金の支払を促すのである。

 買主にしてみれば未だ登記名義が自分のものになっていないにもかかわらず、代金全額を支払う危険はあるものの、国家が資格を与えた登記の専門家である司法書士の保証ともとれる言葉で代金を支払うのである。

 一方売主にとっては、大事な権利書などを交付するのでそれらと引換えに代金を貰うのが当然だと考えるのである。もし先に登記名義を買主にした後で、代金を支払って貰えないということになれば大変だからである。言うならば、司法書士は、売主、買主間の相反する利害の重大な調整弁の役割をしているのである。

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